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「あれから三十年」 岩崎 やす

 昭和二十年(一九四五年)八月九日、この日学校に残っていた教職員学生生徒は女学部一、二年生(現在の中学)と病弱者であり、その他の学生生徒は全部三菱造船所、同兵器製作所、川南造船所その他に出勤していた。

 午前七時半頃警戒警報発令、当時私は約二ヶ月間の病院生活を終えて自宅で静養中だったが、直ちに防空装備に身を固めてオランダ坂を上り学校へ急いだ。八時に空襲警報発令、直に体育館の後の防空壕に待避した。やがて解除になったが病後の身体であり保健室のベッドの上に静養を余儀なくされた。然し十時すぎに職員会議が開かれ校長より特別作業命令が出された。女専部は四階の小講堂から、女学部は三階の大講堂から備付の非常に重いベンチの相当数を校外のグラウンドに運び出すことであった。今晩あたり空襲があるらしいので木製のベンチが火災の原因にならないようにとの理由だった。私は退院後自宅で静養中、しかも食糧不足で体力が衰えていたので四階から重いベンチを動かすことは到底不可能だったので免除を願ったが許されず監督だけでもせよとのことで一人とぼとぼと四階まで上り小講堂のベンチに腰を下して二名の教師と数名の学生の作業を見まもっていた。立山町高台より望む-長崎市役所方面-

 ベンチが運び出されて後、私がただ一人居残っていた時、突然爆音らしいものが聞こえてきたが警報は解除中だったので友軍機だろうと思った。しかし念のため講堂を出てみた。とたんに階下の方でバタバタとただならぬ足音がするので私も本能的にかけおりて行った。丁度三階の階段の終りにさしかかった時、突然異様な青い光がピカリそしてドーンという音と共に忽ち窓硝子や壁土などがガラガラと私の上にふりかかってきた。私はとっさに廊下の床に身を伏せた(瞬間一切が終りだと思いながら。)やがて目を開けた時不思議にも自分が生きているのを知った。あたりは不気味なほど静けさに包まれていた。私はただごとではないと思いとにかく防空壕へと急いだ。途中モンペのブラウスとズボンが血だらけになっているのに気づいた。右手の親指が今にも落ちそうにつけ根から長く深く二ヶ所切れており、手首の内側の中央部からも出血していることがわかった。防空壕にたどりついたのは私が最後だった。急救袋に入れてあった薬品で消毒し一応手当をしたが午后遅く陸軍病院(現在市民病院)の軍医が手当をして下さった。私の右親指は今でも少なくとも一センチは短かい。

 学校に残っていた者達は負傷も火傷も比較的軽症ですんだ。然し浦上城山方面を中心とする被害の状況がしだいのに判明するに従って先ず私の担任だった英文科一年生達の安否が心配になった。このクラスは三菱兵器製作所に出勤していたのですぐにも学生達を探しに行きたい思いにかられながら行くこともできずただ報告を待つ身となり、どんなにか辛い思いをしたことか。

 一方火災が生じて白昼紅の炎が黒煙と共に天をつき県庁方面一帯に燃え拡がっていくのが高台にある校庭から見おろされて筆紙に尽しがたいもの凄い状況であった。眼下の陸軍病院からは目をそむけるように焼けただれた傷病兵たちが学校の防空壕に次々と運ばれて来た。この人達は半裸体で大波止で作業中被爆したのだった。三日、五日、一週間、十日と日がたつにつれて、多くの同僚や学生達の死亡、重傷、入院等々悲しい知らせがもたらされ胸をしめつけられる思いだった。今でも犠牲となった同僚、教え子達の一人一人の顔が浮んで来て私の胸は痛む。

 私の手の傷は癒えるまで一ヶ月かかった。毎日大浦の臨時救護所に通って手当をうけたが包帯は私達が「献納」した古いゆかた地を細かく切りさいたものだった。(ガーゼだけは新しいものだった。)この救護所には様々な被爆者が集められておりかつぎこまれてくる者もあった。見るに堪えられないひどい火傷のひどい人達に比べれば私の手の傷は物の数ではなかった。然し終戦の日まで毎日連続の空襲におびえながら防空壕生活をしていた私は下痢がつづき右手は全然使えず泣きたいような時も度々であった。
 私の住居から道路一つへだてた下の土地は強制疎開でその頃空地になっていた。(現在の梅香崎中学校)。この空地は火葬場と化した。被爆犠牲者が毎日次々と運ばれて来て焼かれる煙が私の家からよく見うけられ、時にはその臭気がただよって来た。今思い出してもぞっとする。

 前にも記したように私は開腹手術を受けて二ヶ月近く大学病院に入院していたが、その間お世話になった部長先生も三人の看護婦さんも皆爆死された。私も大学病院から早めに退院するよう促されなかったら爆死したに違いない。病気のために毎日兵器製作所に出勤出来なかったが健康で出勤していたら爆死したかもしれない。あれから三十年私は生きのびて来た。生きのびたというよりむしろ生かして頂いていると思っている。神様から生かしていただいていることを思えば何か意義のある生活をすべきだと、あの時以来私は深く信じている。神と人とに仕えるために私は何をしてきたのかと反省し、「平和を作り出す」ために何をなすべきかと祈り考えている。

 一九七五年十月 (銀屋町教会)

 

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